ネット上で何かしらのハンドルネームを持って誰かと交流していると、この人も私もネットの世界で生きてるんだ、と思うことがある。
それこそSAOとかみたいに。
ネット上では簡単にアカウントを作って、何度でもどこででも生まれられる。
体のない精神、概念だけがここでは会話をしている。
身体接触がなくてもその人の精神は確かにそこにあって、時には現実よりも容易く人の内面に踏み込むことが出来た。
身体がある現実より精神の交流が楽しかったり、しばしば面倒でもあったりして。
総じて、顔のない人々と話すことは興味深い。
ここは顔身体がない世界だから、精神はいつでもどこにでも生まれることが出来る。
しかし、いつでも生まれられるということは、いつでも消えて死ぬことが出来るということでもある。
ネット上の命なんてのは儚いものだ。
本体である身体から容易く分裂して生まれていく、本体の劣化コピーの精神。
死ぬことに何のためらいも生まれようがない。復活しようと思えば戻ることも容易いんだし。
飽きた。合わない。責められて辛い。受験。就活。晒された。親に取りあげられた。ごめんなさい。
そんなもんだ。
そんなものに熱を上げて、楽しく話をして、必死に引き止めて、それも一瞬。サービスが終われば絨毯爆撃のように全員消える。何が面白いのか。
何も面白くない。
すべては本体の一存だ。私だってそんな立場になれば霧より呆気なく死ぬだろう。
その一瞬が楽しすぎるからこそ、私だって簡単に消えることを選べるからこそ、悔しくてならない。
いない人を必死に探す。そのうちその人を忘れたようにいつも通り交流をしていく。
いずれ私もそんな死んだ概念になる。
概念が死んだところで手元には何も残らない。スクリーンショットとか、魚拓とか、そんなものがいつまでも残るものか。
携帯やパソコンが壊れて、その中に眠らせたままだったことに気づいて、まあいいや昔のやつだしと破砕するんだろう。
こだわりすぎる、考えすぎると笑うなら笑えばいい。
本当に好きだった信条、表現、作品、思いがいつか突然消えた時に思い知ればいい。
今日もTwitterで消えた誰かのホームを見ている。
昨日は1人生まれて、一昨日1人復活して、今日2人死んだ。
少しこれからのことを考えている。