ゴロゴロ転がり日々行進

気だるい社畜の雑記。

顔見の血筋

 

 

最近取った講義に羽生結弦風間俊介を足して2で割った感じの学生を発見した。

以前書いたが、私は感動のストライクゾーンがムダに広いのでもちろんこれは大変嬉しい。

好きな題材を扱う講義でもあるので一石二鳥だ。

 

 

 

他人を判断する時など、大多数の人間が見るのは「顔」だろう。

表情はどんなものか、どんなパーツ配置をしている顔なのか、視線はどこに向いているか……至近距離でのパッと見の判断要素は顔に集中する。

私の場合はその他にも、街なかで「良い顔」探しをよくやっている。

かわいいとかかっこいいもあるが、笑顔や表情の動きが活発だとかで判断し、これは良い顔だなと思うものをちょっと眺めてみる。ゆえに美醜は特に気にしない。たまに人混みでひとりヒマな時は無意識にそうしている。

 

ごくごく稀にメチャクチャ泣いている子どもや烈火のごとく怒っているご老人の真っ赤な顔なども発見するが、あれも顔だけ見るとなかなか良い。おもちゃをなくして叱られた激烈な悲しみや、店員に話が通じない苛立ちからくる恐るべき怒りのパワーが全体に現れている。

両者赤塗りの鬼瓦のごとく、良い勝負。本人たちや店員さんにとってはそれどころでないので、当然これは傍観者としての話だ。

 

しかし私は顔観察者であると同時に、顔覚えられない芸人のくくりでバラエティにでも出られそうな記憶力のなさも保持している。

そのため街で見かけた一過性の良い顔コレクションは、家に帰ってカバンを下ろした時点でたいてい綺麗に処理されてしまう。

まあプライバシー的に見れば適切な仕様であると言えよう。

 

 

 人の顔を見る癖は、特に父親から受け継いだものであるように思う。 

私の父は娘と妻から「顔鑑定士」と言われるほど人の顔を観察している。近所の人々もそうだが、夕食時、ダイニングの椅子に根が生えたように座ってテレビを見ている鑑定士の鑑定対象になるのはだいたいテレビの気象予報士だ。若干お天気お姉さんが多めか。

「この人は新人だな、緊張してる、まだ顔が固い」「隈が出ている」「化粧がケバい」「いい笑顔」「目が笑ってない」などなど、テレビの顔を前にしてまあよく喋る喋る。言われて見てみるとなるほど、確かに目が笑っていなかったり、その日から担当に配属された新人だったりする。流石の観察眼である。

しかも父は記憶力がいい方なので、「この人は他の番組にも出ていた」「この人あの時間のニュースから異動したのか」などと一人一人の顔を覚えているのだ。

とはいえ、ここに酒が入ると顔の美醜についてもベラベラ考察し出すため、この鑑定士は私と母から少々いやかなり煙たがられているが。

 

他人の美醜について話し出す人間というのは昔から好きではない。

まあ、その場のノリで人の姿へ優劣つける話に混ざる必要が出たことは友人間で何度かあった。しかし「あの人綺麗だね、かっこいいね」ならいいものを、他人の醜いと思う部分を口に出す、文字に起こすのは、何となく憚られる。

父への反抗期はまだ少しばかり続いている節がある一人娘だが、そのきっかけにこの辺のこともあったんじゃないだろうか、と最近は思うところだ。

 

 

閑話休題

こういった環境で育つと人の顔を分析する癖が自ずとついてくる。

これは塩顔、これはソース顔……みたいな診断やサンプルなどはそもそもそれ自体を見ているのが楽しい。もこみちはオリーブオイル顔だったか?

この目はアーモンド型、半月型、切れ長。この唇は細め、厚め、富士山型。丸顔、面長、ホームベース。輪郭や鼻の形など、さまざまなパーツがあり、寸分違わぬものがどこにもないのが楽しい。たまに激似の双子などと知り合うのも楽しい。手芸品店でビーズとかリボンやチャームのラインナップを見ている感覚に近いといえる。

そして家に帰るとその記憶をきれいさっぱり忘れる。

 

このプライバシー保護仕様、当然また会う必要のある相手だった場合にはほとほと困る。私の頭の中の消しゴムではなく私の頭の中のシュレッダー状態である。消し跡すらない。結果、また会った時にしげしげと既知のはずの顔を見つめ、(なるほどこういうパーツがついてたか)と認識し、それを2、3回繰り返してやっと記憶が定着する。失礼極まりない。

本日もそれなりに講義が重なっている同期の顔が思い出せなくなってしまった。

鑑定士の娘でありながら記憶力がすっぽ抜けているので、変なところばかり似ちゃったなぁと日々肩を落とす観察者であった。