絵が不得手なので、何かを表現したい時に小説や随筆、詩のようなものはよく書いている。
文章が特別うまいというわけでもないし拙いのだが、文章の方があとあと見返してもなんとなく過去の自分を認められるから好きだ。
これが絵だと、細部に至るまでアラばかり探して、全消ししたくなってしまう。
昔から絵を描くよりは一人語りが得意な子どもだったし、必然といえば必然だろう。
さて、自分もオタクの端くれではあるので、何かのジャンルにはまったり良い一次創作のネタが浮かんだりしたら、創作をしたいと思い始める。
そんな時、自分は一応ラクガキしてみることから入って小説に手を伸ばす、というパターンが多い。筆が乗れば絵も並行して描くが、やはりメインは散文になる。
それでまあ、今までいくつかの場所に分身を作り、自分の作品を残す、ということを繰り返してきた。
拙いながら頑張って書いたものを、読んだよ、と言ってもらえたら嬉しい。誰かが読んだしるしが残るだけでも、とても嬉しい。
その延長で数字第一主義みたいになった時期があって悩みもしたが、とにかくひとつでも誰かの痕跡が残っていたら、ありがたいことこの上ないと今は思う。絵の場合も然りだ。
痕跡どころかとても長い感想をもらったり、このシーンを絵にしました、なんて言われた日には、それだけでニコニコしながらまる一日過ごしていられる。
人によっては嬉しくないという意見も耳にしたことがあるが、私はとにかく大変嬉しい。
自分の書いたものが誰かの脳内の思考に影響を与え、その誰かが私の表現について深く考える時間と労力を作ってくれて、それを形にして示してくれたのだ。
文を書くのにも絵を描くのにも体力がいるのに、わざわざそれを割いてまで、私の考えたことに返事をしてくれて。
これはもうスマホを置いてその目の前でひれ伏し礼を言う勢いである。ほとんどジャンピング土下座みたいになる。
もしくは外国人みたいなリアクションを取っている(いずれも1人の時に限る)。
そのあとはなるべく、貴重な返事に対する返信を、文章なりいいねなりスタンプなりでするようにしている。
考えた小説を、好き、と言ってもらえるのは嬉しい。楽しい。だからやめられない。
その感想が書かれたのが1年前でも1週間前でも、書いたのが今もいる人だろうと去った人だろうと、手元に残せるだけ残して何度でも見返す。
それから、この時こう言ってもらえた自分に近づかなくちゃな、と考えるようにしている。
見える範囲からいなくなった人などの残せなかった感想は思い出せるうちに思い出しておくが、細部の言葉などは抜け落ちていて、それはやっぱり寂しい。
まあ、感想をかつて書いてくれて、好きだと言ってくれた人がいた事実があるだけで良いのだろうか。
とにかくそういったものたちが活力になっているおかげで、何やかんやものを書くことを続けられている。
そんなわけでなかなか屈強な私の想像力の泉は未だに涸れることを知らない。
しかし、最近は話を筋道立てて出力したり、楽しいことを考えて口に出したりするのがあまりできなくなってしまった。
何か考えついても他の思考にもエネルギーを割いていて、吐き出すだけのパワーが足りないのだ。
そこで、無駄にぐるぐる考えすぎたことはここに置いておこうと思ってブログを開いた。
何か閃いたものを、またちゃんとした形にして仕上げたいのだ。
それが誰かに「好き」と言ってもらえるものなのかは分からないが。
もし言ってもらえたら、また私は嬉しくて置いたスマホの前でひれ伏して礼を述べていると思う。
意外と楽しいのだ。ジャンピング土下座。